1300 年前、日本で初めての中国式都城として誕生した「藤原京」。
その中心部であった藤原宮跡から、国家寺院の筆頭であった大官大寺跡、妻の病気平癒を願う天武天皇の深い祈りが込められた本薬師寺跡、そして優美な石棺が納められている菖蒲池古墳。
大和三山の美しい稜線を背景に、日本の国家としての「はじまり」を体感する歴史探訪ルートです。
乙巳の変(大化改新)のはじまりの舞台となった場所。 飛鳥宮跡は、調査で飛鳥板蓋宮(皇極天皇)だけでなく、飛鳥岡本宮(舒明天皇)や、飛鳥浄御原宮(天武・持統両天皇)など、複数の宮が断続的に置かれたことが判明し、伝飛鳥板蓋宮跡から名称が変更されました。 継続的に発掘調査が行われ、石敷の広場や大井戸跡が出土しています。

飛鳥浄御原宮内郭の北西で検出された庭園の池の遺構。 池は石積みの護岸がなされ、底には石が敷き詰められていた。 また一部には島のようになった石積みもみられた。 池の南側には、高さ1.65mの噴水用の石造物が設置され、導水用石造物である出水酒船石と組み合うことがわかった。 遺構は『日本書紀』の天武14(685)年に記された「白錦後苑」の一部と推定されている。

中大兄皇子が造った日本初の漏刻(ろうこく)跡です。 飛鳥川の水を使って時を計っていました。漏刻とは水時計のことです。

亀石と同じく明日香を代表する石造物のひとつ。 長方形に近い形の花崗岩でできており、平らに加工された表面には、円、隅丸方形、楕円の窪みが彫られ、それらを直線で溝が結ぶ不思議な模様があります。 酒造りに用いたと伝わることからこの名が付きましたが、用途はいまだにわかっていません。

藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)は、藤原京の中心施設である藤原宮のあったところです。藤原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う施設や天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせた性格を持っていました。藤原京は16年間の都でしたが、藤原宮の構造はその後の都にも引き継がれていきます。 藤原宮跡では、季節ごとに美しい花が植えられ、菜の花やコスモス、キバナコスモス、ハスなど色とりどりの大地のカーペットを楽しむことができます。また、藤原宮跡は大和三山の絶好の眺望スポットとなっています。藤原宮跡から見る朝陽・夕陽は息をのむほどの秀景です。平成23年6月には、藤原宮跡からの大和三山の稜線の眺めが、「重要眺望景観」に指定されました。特に藤原宮跡から香具山方向を望む展望には、コンクリート系の建物がまったく映り込まないため、「光男の栗」「朱花の月(はねづのつき)」といった映画の撮影舞台にもなりました。 藤原宮跡の周辺には、橿原市藤原京資料室や奈良文化財研究所藤原宮跡資料室など見どころもたくさんありますので、藤原宮跡でゆっくりと時間を過ごしてみてはどうでしょうか。

6世紀末から7世紀初めに蘇我馬子の発願で建てられた日本最古の本格的仏教寺院です。 創建時の伽藍は失われ、塔や金堂の礎石だけが残っています。 本尊である銅造釈迦如来坐像(重要文化財)は「飛鳥大仏」の通称で親しまれています。

厩戸皇子(聖徳太子)生誕の地とされ、太子建立の七ヶ寺の一つです。建物は何度も焼失し、現在の伽藍は江戸時代以降のものですが、美しいタチバナ形の塔心礎が当時を物語っています。謎の石造物のひとつ「二面石」があるのもこの橘寺です。

641(舒明13)年、有力氏族である蘇我倉山田石川麻呂の発願による寺院です。 金堂、回廊の建立後、石川麻呂の失脚により造営は一時中断しますが、673(天武2)年頃に再開され、塔や金堂が完成しました。 1982(昭和57)年には、倒壊した東面回廊がそのままの姿で発掘され、当時の建築様式を知る上で重要な資料となっています。

飛鳥寺、薬師寺、大官大寺とともに飛鳥四大寺に数えられ、斉明天皇の冥福を祈り息子の天智天皇が建立したとも言われていますが、未だ創建については謎が多く残されているお寺です。 創建時の姿は飛鳥資料館の模型で見ることができます。

檜隈寺は渡来人である東漢氏の氏寺でありました。 現在は、於美阿志神社の境内になっており、平安時代の十三重の石塔(重要文化財)が建っています。

日本書紀によると、聖徳太子によって平群に創建された「熊凝精舎」を、舒明天皇が百済川畔に移し、「百済大寺」といい、次いで天武天皇は天武2年(673年)に、この飛鳥の地に移し「高市大寺」といったが、同6年(677年)、天皇の寺という意味の「大官大寺」と改称したとあります。 しかし、発掘調査の結果、現在の大官大寺跡の伽藍は、文武朝のものであることが確認され、書紀に記された天武朝の高市大寺は別にあったと考えられ、7世紀後半~末にかけて国家の経営する大寺として、雄姿を誇り朱鳥元年(686年)には天武天皇の病気回復の祈願が行われ、持統天皇の時梵鐘を鋳造、文武天皇の時には九重塔や金堂が完成し飛鳥の大寺院の一つとして荘厳をきわめたといわれています。 特に塔は方五間、講堂は正面九間、側面四間もある雄大な規模を有したものでありました。その後、平城遷都とともに寺籍を新都に移し大安寺となり、旧寺は和銅4年(711年)藤原京の大火で焼失し、以後、寺地は田畑や民家と化してしまいました。 それでも明治中期までは金堂跡と塔跡が残り礎石も残っていたが、明治22年橿原神宮造営の際、運び去られ、現在その面影を伝えるものは、わずかに残った土壇のみとなっています。

天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って建立した寺院跡。平城遷都に伴い奈良市の薬師寺へ移転したため「本」薬師寺と呼ばれます。現在は東西二つの塔跡の礎石が残り、夏には周囲に広がるホテイアオイの薄紫色の花が、礎石に彩りを添えます。

蘇我馬子(そがのうまこ)の墓と伝えられる石舞台古墳〈6世紀末~7世紀前期〉は、わが国最大の方墳であり、30数個の岩の総重量は約2300トンにもなります。 特に天井石は約77トンもあり、造られた当時の優れた土木・運搬技術がうかがわれます。月の夜、狐が美女に化けてこの上で舞ったという言い伝えがあります。外から見ても、中をのぞいてもその大きさには圧倒されます。

【国指定史跡】菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん)は橿原市の南東部、明日香村との境界線付近に位置しています。横穴式石室を埋葬施設としており、石室部分が国の史跡に指定されています。玄室内は柵越しではありますが、現地で見ることが可能です。 墳丘の形状はこれまで不明とされていましたが、2010年(平成22年)に行った発掘調査によって一辺約30メートル、二段築盛の方墳であることが明らかになりました。 両袖式の石室であることが判明していますが、羨道の大半が土に埋もれた状態であるため、石室の全長は不明です。玄室の下半部も土に埋もれていますが、奥壁および側壁は花崗岩の巨石を二段に積みあげていると考えられます。石室は玄室がやや長いものの、近鉄飛鳥駅そばにある岩屋山古墳(いわややまこふん)と似ていることが指摘されています。 玄室内には2基の家形石棺が、石室主軸にあわせて縦一列に安置されています。2基の石棺は屋根部分の形状が極めて特徴的で、いずれも天井部分が棟飾り風に仕上げられています。石棺の内側には漆が塗られています。このような石棺は他に例がありません。2基は同じ形状をもつことから、同一の工人によって作られたと考えられます。また、築造当初からふたつの棺を並べて安置する計画があったものと推察されます。

またの名をあさがおづかともいう。 貝吹山(210メートル)を最高点とする通称真弓丘と呼ばれる低い丘陵の一画にあり、檜前の皇陵、古墳群を望見できる景勝の地に位置する。 国の史跡に指定されている。 平成21年の調査で対辺長約22メートル高さ4.5メートル以上の八角形墳であることが判明した。 内部は、巨大な一個の凝灰岩をくり抜いて左右二室に造った横口式石槨で、他に例をみないほど精巧に造られており、天井は緩やかなドーム状の曲面をなしている。 この古墳も古く盗掘を受けている。 大正3年の調査時に夾紵棺(きょうちょかん)の破片、七宝飾金具、ガラス製丸玉、人骨片などが検出された。 被葬者は、川嶋皇子とも浅香王ともいわれたが、斉明天皇と間人皇女という説が有力である。石槨の構造、夾紵棺、古墳の位置等から天皇家を含めてその一族に連なる被葬者が推定される。終末期の古墳である。 また隣接、南東側で刳り貫き式横口式石槨の越塚御門古墳が検出された。この越塚御門古墳の発見は、「日本書紀」天智6年の粂との関連が注目されている。

壬申の乱(672年)で大友皇子を倒した大海人皇子(即位後に天武天皇)とその皇后である持統天皇の合葬墓です。壬申の乱(672年)で大友皇子を倒した大海人皇子(即位後に天武天皇)とその皇后である持統天皇の合葬墓です。 持統天皇は後に女帝として皇位を継承し、藤原京を造営しました。

高松塚古墳の直ぐ北にある三段構造の8角形墳。 火葬骨を埋葬した精巧な古墳として知られている。

1983年(昭和58年)に壁画が発見されたキトラ古墳は、その後の調査により、天文図や四神の精緻な壁画が確認されるなど学術上極めて価値の高いものとして、2000年(平成12年)に特別史跡に指定されるなど、高松塚古墳に匹敵する飛鳥の枢要な文化財です。 2001年(平成13年)3月16日、キトラ古墳周辺地区を国営飛鳥歴史公園の一部として整備することが閣議決定され、2016年(平成28年)9月24日、国営飛鳥歴史公園5番目の地区「キトラ古墳周辺地区」として開園しました。

飛鳥の西南、檜隈の里の文武天皇陵近くにあり、昭和47年に彩色壁画(国宝)が発見され一躍有名になりました。 被葬者についてはかなり高貴な人物とされています。 本物の壁画は修復中のため見ることはできませんが、古墳西隣には高松塚壁画館があり、極彩色の壁画の模写や復元模型が見られます。

飛鳥・藤原の宮都とは今から約1300〜1400年前、日本が初めて「国家」としての形を整えた歴史の舞台で、
橿原市・明日香村・桜井市に位置します。
律令制度に基づく天皇を中心とする中央集権国家を目指し、天皇の住まいに政務を行う施設を順次付け足していった「飛鳥の宮都」から、国を治める機能を巨大な一つの宮殿に集約した「藤原の宮都」へ発展していく過程を今に伝えています。
中国大陸や朝鮮半島諸国との活発な交流により、最先端の建築・土木技術や思想を積極的に導入し、それらを日本の風土や文化と融合させることで日本独自の宮都へと昇華させた証が刻まれています。
日本の宮殿で初めて瓦葺きの建築が建った藤原宮や、日本最古の本格的寺院である飛鳥寺、極彩色の壁画で知られる高松塚古墳・キトラ古墳などの建築様式や立地などの変遷が、日本独自の中央集権国家が完成する様子を物語る世界でも類を見ない遺跡群です。
「飛鳥・藤原の宮都」ではかつての宮殿や仏教寺院、墳墓(またはお墓)が今ものどかな風景の中に息づいています。
日本のルーツが鮮やかに蘇る、世界に認められる価値が、ここ「飛鳥・藤原」にあります。
Story
1300 年前、日本で初めての中国式都城として誕生した「藤原京」。
その中心部であった藤原宮跡から、国家寺院の筆頭であった大官大寺跡、妻の病気平癒を願う天武天皇の深い祈りが込められた本薬師寺跡、そして優美な石棺が納められている菖蒲池古墳。
大和三山の美しい稜線を背景に、日本の国家としての「はじまり」を体感する歴史探訪ルートです。
Story
万葉集でも名高い大和三山を徒歩で登頂し、最後は日本建国の聖地・橿原神宮へと至る、
ウォーキングツアーです。
中大兄皇子が三山の相聞歌を詠んだその情景を実際に歩いて追体験します。
絶景のパノラマと神聖な山の空気、そして歴史の深淵に触れる、心身ともに満たされるツアーです。
Story
初代神武天皇が即位したと伝えられる日本のはじまりの地「橿原神宮」、そして戦国時代に一向宗の拠点として発展し、「大和の金は今井に七分」と称されるほどの経済力を誇った奇跡の町「今井町」へ。
神聖な静寂に包まれた「神域」から、人々のエネルギーが渦巻いた「中世・近世の自治都市」へ。
数千年の時を凝縮した、知的好奇心を刺激するウォーキングをご体験ください。
Story
飛鳥駅から出発し、世界遺産候補の構成資産「全 19 箇所」を 1 日で制覇する、エネルギッシュかつ知的なアドベンチャーです。
古墳時代の終焉から、本格的な中国式都城の完成まで、E バイク(電動自転車)ならではの機動力を駆使して、飛鳥・橿原・桜井に点在する聖地を繋ぎます。
「法隆寺地域の仏教建造物」には、法隆寺と法起寺の二つの寺院における木造建造物が含まれます。平成5年(1993年)に、姫路城とともに日本で最初の世界文化遺産として登録されました。法隆寺は、推古天皇15年(607年)に聖徳太子によって建立されたといわれています。伽藍は西院と東院に分かれ、西院のうち金堂・五重塔・中門・回廊などの建物は7世紀後半から8世紀初頭にかけて建造されたもので、現存する最古級の木造建造物です。法起寺は7世紀に創建されましたが、現在は三重塔が残っています。これらの建造物は、中国から朝鮮半島を経由して仏教が日本に伝えられた初期の建造物であり、仏教建造物の傑作であると評価されています。また、その後に建てられた建造物群とあわせて、日本の仏教建造物の変遷を知ることができ、日本独特の建築様式が発展していったことを示しています。
「古都奈良の文化財」には、東大寺、興福寺、春日大社、春日山原始林、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡の8つの資産が含まれます。710年の平城遷都により奈良時代が始まりました。平城京は中国の唐の長安にならって造られたとされており、中国や朝鮮半島との交流を通じて日本の文化が大きく発展しました。平城宮は平城京の政治・文化の中心であり、平城京内や周辺には多くの寺院や神社が造営されました。「古都奈良の文化財」は、寺院及び神社の境内・宗教建造物群、春日大社及び春日山原始林の神道思想に関連する文化的景観、平城宮跡の考古学遺跡からなり、日本の歴史に政治的・文化的変化をもたらした極めて重要な時代でもある8世紀(奈良時代)の宗教、生活のあり方を伝えています。また、その伝統が現在も人々の生活に息づいている点などが高く評価されました。
「紀伊山地の霊場と参詣道」は、奈良県と三重県、和歌山県にまたがる世界遺産で、「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」の三つの霊場と、それらを結ぶ「大峯奥駈道」「熊野参詣道」「高野参詣道」の参詣道が含まれます。このうち、奈良県には霊場「吉野・大峯」と、大峯奥駈道、熊野参詣道のひとつ小辺路(こへち)が所在します。紀伊山地は、深い森林と急峻な山脈が縦横に連なる山岳地帯が南の海に迫る地形が特徴で、豊かな自然を背景に、日本古来の自然崇拝の信仰と大陸伝来の仏教が融合して、多様な形態の信仰が育まれました。霊場「吉野・大峯」は、紀伊山地の最北端にあり、吉野山、吉野水分神社、金峯神社、金峯山寺、吉水神社、大峰山寺で構成されます。標高千数百メートルの山々が続く修験等の聖地であり、10世紀の中頃には日本第一の霊場として信仰を集めるようになりました。「紀伊山地の霊場と参詣道」は、これらの資産と、自然と人々の営みが作り出した風景が一体となった文化的景観であり、その伝統が古代から現代まで受け継がれている点が高く評価されています。